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彼女の福音

弐拾壱 ― そんな秋の夕暮れ ―

「はぁあ」

 あたしは陽平の部屋で頬杖をついて、ついでにため息も吐く。

「どうしたのさ、浮かない顔しちゃって」

 陽平が笑いながらあたしにお茶を勧めた。窓から夕日が射し、どこかノスタルジックな雰囲気だ。

「ん。ありがと。いやね、十一月って何だかこう、ため息が吐きたくなっちゃうのよねぇ」

「あ、わかる気がする」

「でしょ?日は短くなるし、なのに楽しい行事なんて何にもないでしょ?誰かの誕生日でもないし、クリスマスはまだだし。園児達もあまり楽しそうにしないのよねぇ」

「へぇ。幼稚園じゃ何やってるの?」

「そうねぇ……まあ、年長組は七五三やるけどね。今年もちゃんと写真撮ったんだけど、やっぱり可愛いものよねぇ。何だかいなくなっちゃうのが寂しいくらい」

 すると、陽平があたしを少し呆けた顔で見ていた。

「どうしたの?」

「いや、やっぱり杏って保母さんなんだなぁって」

「保母じゃないわよ。幼稚園の先生」

「違ったっけ」

「保母さんは保育園の先生。幼稚園の先生とはちょっと違うのよ」

「ふーん。とにかく、今の杏見てたら、何だかすごく優しそうに見えた」

「何それ。あたしはいつも優しいわよ」

「……そう言うことにしておくよ」

「あら?何だか文句がありそうね」

「いえ何でもございませんですのでその百科全書をお仕舞いください」

 あたしはしぶしぶその分厚い本をしまった。ちなみに例によって贋作である。

「ようするにちょっとアンニュイな感じなんだね」

「それを言うならアンニュイ……って、あってるじゃない」

 へへへ、と鼻の下をこする陽平。

「それよりもさ、ちょっと外に出ない?」

 この寒い中?

「気晴らしにさ。こんな狭いアパートにいても、息が詰まっちゃうんじゃない?」

 そう言いながら、あたしのコートを取ってきてくれた。着ながらあたしはぼそっと呟いてみる。

 

 あたしは陽平がいるんだったら、そんなことないんだけどなぁ。

 

「ん?何か言った?」

「別に。さあ行くわよ陽平。で、どこ行くの?」

 

 

 

 

 

 

 結局、どこかに行くには少し遅いので陽平の家の近くを散歩することになった。

「そこの公園、静かだしね。一緒に歩いてみようよ」

 そう言われて、あたしは陽平に寄り添いながらその公園を一緒に歩いた。もう一ヶ月ほど前なら奇麗に黄色やら赤やらの葉っぱを茂らしていた木も、今ではもう細くて黒い枝しか見えない。

「そう言えばさ、何かこういうの、久しぶりだよね」

「え?」

「だってさ、杏と何かするって場合、いっつも岡崎とか智代ちゃんとかが絡んでてさ、しかも何かピッグなイラストでさ」

「それ言うならビッグなイベントでしょ?ボタンの絵なんて、あまり関係ない気がする」

「とにかくこういう静かなのってあまりないって言いたかったんだよぉおお!!」

「あんたって本当にしまらない男よね」

「それがヘタレのヘタレたる所以さ……って何僕に言わせてるんですかねぇ!!!」

「あははは」

 何だかこの頃よく笑うようになった気がする。一人でずっといた時よりも、たまに朋也や智代、陽平の四人でいた時よりも、笑えるようになった気がする。

「でも確かにこういう静かな二人だけの時間って斬新よね」

「そうだね……」

「でもこういうのって結構好きよ?何だか世界があたし達の物って感じがして」

「何だかどっかの危険な独裁者みたいなこと言ってるよ……」

「陽平、あんたあたしがせっかく作りだそうとしている雰囲気ぶち壊した責任とって、いっぺんお星さまになってくれる?」

「ひいぃぃいいいいいいいいい!」

 あたしはため息を吐いた。まったく、何でこんな奴に惚れちゃったのかしらねえ。

「もうちょっとデリカシーってモノを身につけなさいよ、まったく」

「そんな事言われてもねぇ……ま、頑張るけどさ」

「はいはい」

 木々を抜けて広場に出る。あたし達はそこにあるベンチに座る事にした。

「待っててよ。コーヒーでも買ってくる」

「ありがと。ホワイトでね」

「あいよ」

 そう言って、結構嬉しそうに駆けだした。

 何と言うか、子供らしい仕草ではあるとは思う。だけど、あたしのためにそうしてくれる事、しかもそれを嫌がらずにむしろ進んでやってくれている事に、あたしの頬は緩んだ。まったく、いつの間にこういうところまで気が回るようになったのよ?

「はい、お待たせ」

「ありがと……って、陽平?」

「ん?何?」

「その紙袋は?」

 へっへっへ、と得意げに陽平が笑う。

「秋といったら、これでしょ」

 そう言って、袋から紫色の物を取り出した。

「これって……」

「そう、石焼きイモ。半分こしようよ」

 すごく複雑な気分になった。こういうのって、女の子に渡すプレゼントとしては少し地雷的要素があるわけで、それをこんなに気楽に渡すのはつまりデリカシーのない男と取られても不思議はない気がする。でもそこで一つ丸ごとじゃなくて一緒に半分こしようと言っているところに気配りが感じられるわけで。だからあながち無神経と呼ぶこともできない。

「あ、おいしい」

「だろ?ここにくるおっちゃん、何だかよく噂聞くんだよね」

「半分出すわよ。ほら、どれくらいだったの?」

「いいって。僕の奢りだよ。だってほら」

 僕は杏の恋人だし。

 少しぎこちない感じはしたけど、陽平はそう言い切った。

 実は今まで少しばかり実感が湧いていなかった。陽平はあの夜あたしのことを好きだと言ってくれたから、少なくとも形式上は付き合っていることになる。でもだからと言って何かが変わるわけではなく、あたしは陽平の部屋に毎週遊びにというか賄いをしにというか、とにかく行き、時たま抱きしめてもらったりして、それでその日のうちに帰る。だから本当に恋人になったのかなんてわからなかったから、少し不安になってはいた。

 だから、そう言ってくれたのがすごく嬉しかった。

「あ、ありがと」

「どういたしまして。ねえ杏?」

「な、何よ」

「顔真っ赤だよ?」

「!!」

 ゴスフン。

 反射的にあたしはシェイクスピア全集を取り出すと、陽平の頭を張り倒した。もちろん角で。

「ななななな何恥ずかしいこと言ってるのよあんたはっ!」

「あんた無茶苦茶ひどいっすねぇええ!」

「さっき言ったでしょ!デリカシーにかけるって!少しは反省しなさい!」

「いや、何がなんだかさっぱり……ってぇ、もう辞書は止めて下さいぃぃいいい!!」

 

 

 

 

 

 

 コーヒーを飲み終えると、示し合わせたかのように二人して立ち上がった。太陽はもう地平線の向こうに消えようとしているところで、もう三十分もすれば町は夕闇に包まれる。

「そうだ、暗くなる前にちょっと行きたい場所があるんだ」

 そう言うと、陽平はあたしの手を取って走り始めた。

「あ、ちょっと陽平!」

「いいからいいから」

 連れてこられたのは小さい丘だった。目の前には町の灯りが光っていた。何だかベタだったけど、綺麗だった。

「ふっ、杏ほどじゃないよ」

「いやそこでそんなカッコつけて言っても、全然似合わないわよ」

「ひどいっすねぇ!!」

 一転してすごく情けない顔であたしに突っ込む。うん、決めた。あんた仕事辞めて芸人になりなさい。そうしなさい。

「何勝手に人の人生決めてるんだよっ!」

「まあ今やあんたはあたしの所有物だし」

「違うよっ!つーか僕の人権はどこ行ったんだよっ!」

「あー、あたし捨てちゃった。掃除の最中に」

「そんな簡単に捨てられるものなのかよっ!まずちゃんと許可取れよ!それより捨てるなよっ!」

 うがーっと陽平が吠える。それを宥めながら、あたしは町の灯りを眺めた。

「そう言えばさ、あたし達、結局何もしなかったわけよね」

「んー、まあそうだね。ちょっと歩いて、焼き芋食べて、丘に登って」

「陽平殴って陽平苛めて陽平の財布から一万円抜き取って」

「ひどいっすねアンタ!って、ちょっと待て、まだ僕は財布からお金取られていないよ?」

「……」

「え、何この沈黙?え?」

「フヒヒwwwwwwwサーセンwwwwww」

「サーセンじゃねえよっ!っていつの間に!!」

「冗談よ冗談」

「まったく……とにかく、話戻すよ」

「うん。結局何もやらなかったって話」

「そだね」

「でも、何だかこういうのいいなぁって。たまには」

 恋人同士だから何か楽しいことをするんじゃなくて。

 恋人同士だから何をやっても楽しい。いや、いるだけで楽しい。

 そんな小さなことに気づいた。

「陽平、ありがとね」

「別にお礼言われるようなことは……」

「連れてきてくれたじゃないの、こんなところに」

「……まあ、そうだけど」

 照れてそっぽを向き、頬を掻く陽平。あたしはふと一計を案じると、その肩をちょんちょんと突いた。

「ねね、陽平」

「何だよってんんん??」

 おもむろに唇を重ねる。目を閉じてるから分からないけど、恐らく面食らった顔をしてるんだろう。

「いきなり何するんですかアンタはっ!!」

 案の定怒られた。顔が真っ赤になって、目が三白眼になっていた。気のせいか、耳から蒸気が出ているようにも見えた。

「あらぁ?陽平君は自分の彼女にキスされるのがそんなに嫌だったのかしら?」

「い、いやそうじゃなくて、その……って、微妙に話を変えてるんじゃないっ!」

「あーごめんねー陽平。これからは愛情表現はこの素敵な世界神話全集を使うから楽しみにしててね♪」

「……ごめんなさい杏様」

「はい、よろしい」

 そう言って、抱きついた。冷たくなった頬に、陽平の体温が心地よかった。

「もうそろそろ帰ろう?暗くなってきたし」

「はいはい……何だかずっと杏のターンって感じだったな」

「あ、慣れといた方がいいわよ、それ」

「これからずっとそうなんですかっ!」

「何を今更……あ、あと陽平、今のうちに言っとくわね」

「え?」

「別れたら殺すから」

「何気にヤンデレな発言来ましたよこれ!彼氏の威厳カムバーック!!」

「あー、それも掃除してる時に……」

「これもかよっ!他に何を捨てたんだ杏!!」

「えーっと大量のお宝にあたしへの拒否権、あ、あとあの気色悪いCDもごっそりと」

「ああ嗚呼唖ア阿吾アアァぁ昂」

 陽平が壊れた。

「僕のボンバヘッが……空気のテーマ曲なんてくそくらえな国歌が……」

「あーそれは取っておいたから。いくらなんでもそれだけは、ね」

 白く燃え尽きてたのが元通りになった。

「じゃあ、何捨てたんだよ」

「ほら、病気っぽい女の子が包丁振りかざして『鬼いちゃあああん』とか言うやつ」

「……漢字正しいようで間違ってるから、それ」

 二人で笑いながら丘を降りた。

 

 

 

 

 結局、十一月は何にもない月だけど。

 陽平がいるなら大丈夫かもしんない、と思ったりする。

 そんな秋の夕暮れ。

 

 

 

 

 

 

「ところで杏、シェイクスピア全集と世界神話全集、いつの間に支度したの?」

「……陽平、世の中には知らなくてもいいことがたぁっくさんあるのよ★」

「ひぃぃいいいいいいい!!」

 

 

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